都会と田舎の境界線の違い


先日三重県の美杉村へ、茶畑を借りるために見学へ出かけた。
耕作放棄地を再び管理して、新しい仕事を作り出したいと思っているからだ。
 
「この辺りは在来種だからね」とあまり良くないという意図で茶畑の説明を受ける。
少し形を見たところで僕には違いがわからなかったけど、この地域のお茶は大きく分けると「やぶきた」と「在来種」が2種類が存在することを知った。
 
僕の古民家に隣接する茶畑は「やぶきた」と聞いているが、基本的には出荷して生業としていた人たちは「大きくて育てやすくて美味しい」というものを育てていたのは、ごく当たり前に想像できる。だから普通は「やぶきた」を育てるのが正解なんだろう。
 

おもしろそうだけでは成り立たない、継続する仕組みの必要性

 
最近は意識の高い人たちの地方移住の波もあり、地方で仕事を起こす取り組みが様々なところで紹介されているけど、実際には都会のように賃金を得ようと思うと、なかなかそこまで行けるところは非常に少ないのだろうと思っている。
田舎では外から入ってくる人に対する警戒心が強い。地方での活動をする前はなぜそうなのかは理解できなかった。でも実際に田舎に拠点を構えて、内側からの目で見てみるとその理由が理解できた。
 
回覧板を持ってきたり、おすそ分けを持ってきたり、普通にドアを開けて呼び出したりは当たり前だ。田舎は都会に比べて家庭ごとの境界線という概念が緩い。でもそれは家庭単位の境界線が緩いだけで、外と中の境界線はきちんとある。
 
都会は家庭単位だが、田舎は地域単位。要するに境界線の引き方が違う。
 
都会で新しいことをスタートするにはこの境界線を意識することは少ないけど、公共のサービスが行き届かない田舎では、地域の掃除や寺の世話、防災訓練などを自治会などが役所に変わり管理している。多分このコミュニケーションがなくなると、田舎は想像しているよりも荒れるのだと思う。
 
どんなことでも、成り立ちを理解すると納得できることが多い。外から見ると「こうすれば良いのに」と思うことでも、中から見ると納得せざる得ない理由がきちんとある。何かを変えようとするなら、その納得せざる得ない理由もくみ取り、変化させる覚悟と忍耐力を持たなければいけないと思う。
 

僕は正直、地域のことを考えて色々な取り組みをしているわけではなくて、意図せず手にした茶畑のお茶が美味しかったから、もっとたくさんの人に味わって欲しいと思って行動している。
今回の美杉村の見学も、身近に関係する人たちが、今まで積み上げてきたものを維持していくことで、美味しいものや魅力のあるものを新しく作り出したいと考えて訪問した。
 
自分に縁がある地域で、自分ができることを考えて行動することがとても大切。ある意味運命のようなものだけど、やれることや関われることは人それぞれ違う。
やるべきことは無理やり作り出すのではなくて、自然に出てくるもの。これに気が付けるか、やるか、やらないかは自分次第。チャレンジしたいと思う人がチャレンジすれば良いと思う。

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