効率化の行き着く先のこと

昨日は先輩と一緒に三重県へ行き、松阪の飯高や嬉野、美杉の太郎生や上多気、下多気あたりの不動産巡りをしていた。実際に奈良から移住してきた方のお話しや、どんな人が移住を検討しているのかとか、不動産会社の方から、その人間模様も聞くことができたりもして、軽い気持ちでついて行ったけど、とても考えさせられる時間だった。   最近、ずっと農山村や限界集落や地方創生についての書籍を多数購入して、暇さえあればずっと読み込んで、自分の考え方に確信が持てるように勉強をしている。最近はなぜ僕が田舎に入ることを望んでいるかとか、みんながなぜ地方を守らないといけないと「なんとなく感じている」など、実際に数字に関連付けて自分自身もきちんと納得したいと考えていた。   人口減における2025年問題とか、そういう現実的な課題や問題もある。でも、僕自身、効率とかそういうものだけをものさしに決断をすることに対する疑問がたくさん湧いてきている。  

「効率的に考えてこの村が要らない」と合理的に判断することはできない

  例えば分かりやすく、〇〇村は人が多いから必要だけど、〇〇村は人が少ないから社会インフラを考えたらコストになるから必要ないよね、と考えた場合に境界線はどうやって引けばいいのだろう。   生産性だけを考えると、赤ん坊とお年寄りは要らない。   もちろんこんな判断が出来るわけは無くて、しかも社会的な定義は別として、どこから若者でどこから高齢者なんて一括りにジャッジすることは現実的に不可能だ。この話を極論の極論で突き詰めると、「人はどうせ皆死んでいくなら、死んでしまって何もしないのが一番の生産性」みたいな変な話になる。   僕はビジネスを考える時に、よく回転寿司で例えることが多い。「利益率だけを考えたら全部カッパ巻きだけを回した方が良いが、そんなつまらない店には誰も行かない」という例え話。   会計用語でセールスミックスという原価率の違うものを全て合算して、粗利益が取れているかを判断する方法がある。回転寿司はまさにその典型で、マグロもきゅうりもウニも全てミックスして「全部を俯瞰して見て成り立っているか?」で判断されている。 つまり、どのレイヤーで合理的を判断するか。視点の話が大切だということ。   そんなのあたり前だと思うと思うけど、短絡的にミクロな効率化だけを考えると「全てカッパ巻き」いう現象が起きる。それをみんなが本当に望んでいるかどうか。多分望んでいないし、そんな世界はきっとつまらないものだ。  

不便や面倒で味わえる、人生の楽しさ

  色々と考えていて最近思うのは、効率化の行き着く先がつまらないものになりそうなら、反対を目指して見るのも悪くないんじゃないか。苦労して登った山から見えた景色が素晴らしいように、非効率なことから知る体験も味わい深いものになるんじゃないか、ということ。   今回出会った、地方に移住された方や地方に移住しようとしている方たちは偶然にも年配の方たちばかりだった。都会の便利な生活から敢えて不便な生活を楽しむ姿に、いろんなヒントが隠されていると思ったし、何よりも元気で生き生きしている姿に感動した。   コンビニが無くても、イオンが無くても、気の知れた仲間と美味しい食事があれば、どこでも素晴らしい時間が過ごせそうだ。それにしても昨日は1日の時間がすごく長く感じた。普段時間が早く過ぎるなと感じるということは、全てが予定調和でそのパターンに慣れてしまっているからだ。長い人生を楽しみたいなら、もっと刺激がある生活や体験したことの無いことに時間を使うことが大切なようだ。   全ては自分がどう生きるか、ということだ。  

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