来年迎える40代に向けて、20年を棚卸ししてみる
来年は2020年。1980年生まれの僕もいよいよ40歳代に突入する。
僕が想像していた40歳はもっと大人で落ち着いているイメージだったけど、自分のことは結局よく分からずで、周りの友達とかを見ながら僕も大人になったのかなと感じている。
高校卒業してから仕事のキャリアをスタートして、今は社会人20年目。来年からは社会人として暮らす年齢が学生だった頃の年齢を超える。そう思うと、自分が約20年間、何をやってきたのか、少し棚卸しをしておきたいなと思ったから、ここに少し書き残しておこうと思っている。
19歳-25歳。財務、会計、経理
高校に入学する前は「デパートで働きたい」と漠然に思っていた。だから商業高校に入学したけど、実際に僕がイメージしていた職種になるためには、入学した学校でない方が良いと、入学してすぐに気がついた。なんとなく入学してすぐに目標みたいなものが無くなって、テスト期間中以外はずっとアルバイトをしたり、バンドをやったり、好きなクラブ活動をやったり、とても自由に生活していた。
いざ卒業が近くなり、進路を考えないと行けなくなった時に、やりたいものも無いし、世の中のことも全然分かってなかったので、勉強するくらいなら働いた方がいいなと思って、一番お金の良いところを進路で選択した。その進路とは「名古屋の地下鉄の運転手」だった。夜勤もあると書いてあったけど、高校卒業で月給はたしか30万円を超えていた。
いざ地下鉄の運転手の仕事にエントリーする直前に、僕が視力が悪いことで健康診断に引っかかることが分かり、結局エントリーを辞退して、僕は卒業前まで進路が決まっていなかった。最後に就職先は「エビせんべいを焼く仕事」か「食品メーカーのシステムエンジニア」の二択しかなかった。僕は学生時代にクラブでプログラミングを学んでいて、高校生の時にプログラミング協議会で上位10人にも入賞したことがあるくらいプログラムを好きになっていたので、「食品メーカーのシステムエンジニア」を選択した。でも「簿記ができるなら経理」と言われて、なぜか財務部に配属された。
どんな仕事でもやってみると面白く、色々なことにチャレンジさせてくれる社内環境にも恵まれて、財務、決算、資金繰りなど数字を動かす仕事を一生懸命やっていた。途中あるきっかけで経理の専門学校に入学して、日商簿記1級の勉強をしていた。キャッシュフロー計算書、連結決算、時価会計、デリバティブ取引、M&Aなど色々な仕組みを学びながら、社内では基幹システムの入れ替えのプロジェクトなどにも関わり、会社の業務は全てリレーションシップが取れていることも鮮明にイメージできるようになっていた。
仕事をやりながら、休みは色々な場所に出かけていた。カフェのスタッフはキラキラして見えたし、カフェに出入りしているデザイナーは眩しく見えた。何かを作っている人に憧れて、自分の仕事はなんだかカッコ悪いものにも思えていた。経理の仕事は誰がやっても答えが同じになるから、自分がやらなくてもいいかなとか思っていた。そしてカフェとかやりたいなぁと漠然と思い始めていた。その時はたしか25歳くらい。
ちょうどその頃、先輩に誘われて飲食ベンチャーを立ち上げる話に乗っかり、会社を辞めた。
●当時の僕のスキル(資格とか経験とか)
- 会計実務、決算監査、原価計算、固定資産の管理など
- 日商簿記1級レベル(連結決算、キャッシュフロー会計、時価会計、原価計算など)の実務経験
- 日商簿記検2級(商業簿記、工業簿記)/情報処理検定 1級/秘書検定や商業法規など資格各種
25歳-26歳。料理、デザイン
25歳の3月末に会社を退職して4月から上前津のcafeでフライパンを振り始めた。
会社に入ったタイミングで、すでに会社が火の車だった。だから最初の給料だけ入って、あとは未入金になった。5年間仕事をしていて当たり前だったことが全部覆り、勤務時間も早くて9時から24時くらい、遅くて9時から翌朝7時だった。僕の想像していたカフェは、常連さんと会話をしながら楽しく暮らすイメージだったけど、全くそんなことはできず、日々追われても成果が見えずに焦ってばかりだった。1年も働いていると気持ちも懐も余裕が無くなり、ただ時間が過ぎていきながら自信を失っていってる期間だった。3店舗もあったからメニューブックを作らないといけなかったけど、作っていた担当の人が先に辞めたから、僕が作るようになった。ここからデザインのキャリアがスタートした。
操作がわからない部分は全部インターネットで調べて、印刷のことは近所の印刷会社の営業の方に聞き、社内にあったカメラで写真を撮り始めた。今見るとひどいデザインだと思うけど、当時の僕にとっては徹夜で作業していても楽しいと思えるくらい、誇らしいことだった。自分が作ったものが世の中に出ていくことがこんなに楽しいことなのかと、小さなモノクロ広告でも夢中で作業をして、本屋にチェックしに行ったりしていた。
数ヶ月、料理をしながらデザインの仕事を行なっていた。でも、通帳が空になり、兄弟からお金を借りたりしても生活ができなくなってきたから、会社を辞めた。辞める前に残る人に理不尽なことを言われて喧嘩になり、外部のお客さんからもらったデザインのギャラ13万でimacを買って、就職も決まってなかったし、就職したく無いと思ったので、強制的に独立という形になった。クライアントさんに2ヶ月間だけ15万円/月で常駐して、朝の9時から夜中の24時まで、無理難題を言われてこき使われていたけど、そのおかげでレイアウトの作業に慣れた。
でも借金があり一人暮らしをしていたので、15万円で足りるわけもなく、毎日どうしたらいいか悩んでいた。そんな中働いていた会社から戻ってこないかと連絡をもらい、元の会社に復職した。
●当時の僕のスキル(資格とか経験とか)
- 財務会計、管理会計の実務と理論
- イラストレーターやフォトショップなどのデザインツールの操作
- 洋食やデザートなどの調理経験、コーヒーや紅茶の知識
26歳-31歳。復職、専門学校、飲食
復職しても、飲食は好きだった。だから高校生の友達とケータリングを始めて、色々な場所で料理を作って運んだ。年に数回だったけど、作るのが楽しいから呼ばれれば料理を出しに出向いていた。
あと、デザインの基礎を学びたいと思ってバンタンに入学して、毎週学校に出かけていた。グラフィックデザインの先生はスキルがお世辞にも高くなく、ネット検索して調べた方が早いから、勉強はともかく人との関係を作ろうと思い通っていた。その頃からゴールさえわかればプロセスは自分で調べた方が早いことに気がつき、何をやるにも格段にスピードアップしていった気がする。
復職した後も、少し外部のクライアントさんがいたので、クライアントさんからもらうフィーで、カメラの機材やパソコンなどを購入して使い倒し、スキルを磨いていた。インハウスデザイナーのサラリーマンとして外部の方とコラボしながら撮影現場で機材をチェックしたり、撮影データを分析して何が正解なのかを一生懸命考えて、自分にインプットしていった。慣れてくるとそんなに難しくないことにも気がつき、ますます自分でやることが増えていった気がする。
仕事は責任ある立場で色々とやらせてもらえるし、とても刺激も多くて楽しかった。でも自分だけでもう一度チャレンジしたいと思っていたから、なんとなく32歳になったら辞められるように準備をしていた。でも31歳の時に震災が起きて、なんとなく焦る気持ちが募り、震災から半年後に会社を辞めた。
●当時の僕のスキル(資格とか経験とか)
- 一通りのデザインワーク
- 印刷などのプリンティングスキル
- 基本的なコーディング、フロント部分の簡単なプログラム
- スチール、動画の撮影や編集、レタッチスキル
- ケータリング、レシピ制作などのフードデザイン
- 財務会計、管理会計の実務と理論
- 知的財産や薬事法などの基本的な知識
31歳-39歳。起業
どうやったらやっていけるのかとか、お客さんはどうやって探せばいいのかとか、製造メーカーからの独立は今思えば引き継ぐお客さんもいないし、リスクが大きかったんだろうと思う。でもなんだか希望しかなかったような気がする。
自分で考えて、自分で動き、自分で解決して。仕事に行き詰まってもやっていけるようにと、深夜の高速バスに乗って出張へ行ってみたり、カプセルホテルに泊まってみたり、最初は暇だったし色々なことをやっていた。会社に居ると新幹線で移動してホテルに泊まり、出張手当まで出たり、今考えるとそれって当たり前でないし、それができる企業って本当にすごいなぁと尊敬する。
理由はわからないけど、8年くらい会社も続いて、楽しい仕事もやらせて貰えて、少しは色々な名前も覚えてもらえることで、承認欲求も満たせている気がする。でもやっぱり僕は飽き性なのか、自分がやっている事から派生する何かをやりたくなる。名古屋で8年やってきて、ここで新しいチャレンジをしてみたいとまた思い始めている。
40歳。山奥から世界に繋がるプロダクションへ
今、三重県の山奥に新しい拠点を作る準備をしている。
ざっくり曖昧に言うと、田舎に取り残された可能性を掘り起こして、その価値を世界に広げていく活動をやっていきたい。なんでそんなことをしたいかを考えていると、結局僕の実家は農家で、小さい頃の思い出がやっぱりあって、緑に囲まれた場所で何か新しい可能性を見出してみたい。マニアックなジャパニーズローカルカルチャーを世界に発信したい。放っておいたら消えてしまうテクニックを保存したり、実際にテクニックを使って価値を提供したりしてみたい。何かこれからのためになるような活動をしたい。
そのためには、今の環境では効率が悪すぎる。やっている仕事を全てまとめられる場所が必要だ。だから新しく拠点を作って来年には新しい環境で、再びゼロからの気持ちで頑張っていきたい。
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