経理マンが独立して名古屋でデザイン事務所を設立できた訳(5)
2005年の年初に、退職届けを出して3月末に辞める為に準備をスタートしました。
4月からすぐにスタートダッシュ出来る様に、会社が休みの土日は飲食店の手伝いに行き、平日は引き継ぎ作業などでバタバタと休み無く働きました。3月末に退職しても、次の日から飲食店に入りました。
今まで8時〜17時で働いていたのが、急に9時〜24時働く様になって正直大丈夫かなと心配しましたが、意外に大丈夫でした。午前中はランチの仕込みでバタバタと、ランチが終わって夜の仕込み、気がつくと夜のピークで終わり。そんな日がずっと続いていて、ずっとパソコンの前で伝票を打っていた生活から変わって、それは楽しかったです。
でも、そんな楽しい日々は長くは続きませんでした。最初の給料が振り込まれませんでした。あれ?と思ったのですがそんな感じで、途中でもちろん確認しますが、うやむやに。入って2ヶ月で分かったのですが、瀬戸にオープンした店が全然赤字で、主力の一つと思っていたデザイン業務も実は全然仕事がなく、会社のお金はスッカラカンでした。僕は退職金や財形で貯めていたお金を切り崩して生活をしていました。社長は店の売上が無いからお前らの責任だ。とかそういう感じでした。そのうち緊急ミーティングが開かれました。
「今こんな状態だけど、これから頑張って行けるやつだけ残ればいい。みんなどうするか?」
という話の時に、僕を誘った人、そしてマネージャーの立場の責任者が一番先に「辞める」とか言い出しました。僕は正直誘っておいてそれはないなとも思いました。でも一生懸命働いていた会社を辞めてまで来たのに、今更辞められないと思ってとどまることにしました。そこからが地獄でした。
人も減るので仕事が大変になり、休みもなく給料もなく朝から晩まで働いていました。辞めたマネージャーはデザインの仕事をしていました。クライアントさんが少しだけいたのをだれか引き継がないと行けないという話になり、僕はやりたいと手を挙げました。飲食も好きだけど、デザインの仕事はかっこいいなと思っていたし、 今もお世話になっているスタジオアッシュの皆さんがごはんを食べにくると、みんなデザイナーってかっこいいなーっていう感じで話していて、僕もカッコいい事したい!と思ってとっさにそういう行動に出ました。
でも朝から日付が変わるまで働いて、そこからmacを触るのは本当に辛かったです。分からないことはほとんどウェブで徹夜で調べて、印刷の事も印刷会社の営業の方に聞いて覚えました。CMYKとRGBの違い、トリムマークの意味、解像度、jpgでなくてeps。本当に分からないのをほとんど全部独学で覚えていきました。少しだけ出来る様になった時に、経理マンとして働いていた会社からもデザインの仕事をもらえるようになっていました。
でも業績は変わらず、僕も年末には貯金も無くなり、兄からお金を借りて、その後は親からもお金を借りて、でも家賃や水道光熱費、税金は全部滞納していました。仕事の合間に、税金を払うのを待ってもらえないか?と区役所に行ったら、「君は何でそんなに働いているのに払えないのだ?」と言われて、一生懸命現状を説明していたら、情けなくなって来て泣きそうになりました。
こんなに働いているのにお金がなくて、バイトの子達にも給料が払えなくなって、僕はこれでいいのか?ってずっと考えていました。自動販売機でジュースを買うのに躊躇するようになると、どんな事でも自信が無くなる感じでした。仕事の合間に同窓会に誘われても、もちろんお金が無いから行けないし、洋服も新しいの買えないし、クリスマスや誕生日にプレゼントも買えない。こうなってくると、抜けようと思う気力も無くなってきます。この時に初めて、人間がどん底に落ちるといかに上がってくるのが難しいのかが分かりました。
でもこれ以上続けるとキャッシングか、友達にお金を借りないと行けなくなるので、それは絶対に駄目だと思って辞める決心をしました。辞める時も大変でした。一緒に働いていた女性スタッフに、デザインの仕事を置いて行けと言われて、「それを決めるのは僕らじゃなくてお客さんだ!」と僕がいって喧嘩になり、「あーこの人はそんな事も分からなくなってきているのか。僕らは本当に最低な事をしていた、気がついて良かった。」と思って、「そんなに言うならデザインで稼いだお金を(子供が可哀想だと思って)あなたの給料にしていたけど、これは僕がもらう。」といって、自分で稼いだデザインのお金を僕がもらうことにしました。当時で13万円でした。
そのお金は本来なら生活費にしないと行けないお金でした。でもここで生活費にしたら何も出来なくなってしまうと思って、僕は全額使ってyahooオークションでimacを買いました。DTPのソフトはimacを売ってくれた人がくれました。そしてそのimacでフリーランスとしての活動を始めました。クライアントさんの事務所にimacを持ち込み、そのクライアントさん以外の仕事もそこで請けていました。当時お金が全くなかったのでごはんはクライアントさんにいつも食べさせてもらっていました。
でもクライアントさんとの契約は繁忙期2ヶ月間だけ、その間は月15万円契約で色々作っていました。今考えると安いですが、今までからのノーギャラの生活よりはまともな生活でした。でもそれでも滞納した色々なものを払えないので、本当にどうしようか迷っていました。その時に、前に働いていた会社の役員から連絡があり、「新規事業で内製でデザイナーが必要。社長が戻って来てもいいと言っているから、戻ってこないか?」と電話がありました。
僕はすごく迷いましたが、お金に困っていたし、このキャリアでは一人でやっていく自信ももちろんありませんでした。なのでもっと経験をつみたいと思って戻らせてもらう事になりました。会社を辞めて1年ちょっとで元の会社に今度はデザイナーとして復帰しました。
次回の話はこちら >>
経理マンが独立して名古屋でデザイン事務所を設立できた訳(6)
<< 前回の話はこちら
経理マンが独立して名古屋でデザイン事務所を設立できた訳(4)
MORE POSTS
住宅宿泊管理業の登録実務講習
僕が考えている、これからの話
地域おこし協力隊をひとまず終えて
奥松阪という名前に込めた想い
農林漁業体験民宿の手続きのプロセスを公開します
三重県公安委員会許可 第541022002300号 古物商(道具商)